ベーシックインカムの時代に黒澤監督と生きる #6

(黒澤明監督/東宝「生きる」より)

ベーシックインカムの議論が活発になってきた。

ベーシックインカムというのは、全国民に生活できる程度の現金を支給するという社会保障のアイディアで、もし具現化すれば仕事をしなくても生きていける社会がやってくるかもしれない。2016年1月にはオランダの一都市で実験的な導入が開始され、2016年の6月にはスイスで導入の是非を問う国民投票が行われる予定だ。

とある試算によれば、日本で実現する場合には、「年金・生活保護・雇用保険・児童手当」を廃止してベーシックインカムに一本化するような最適化を行えば、増税しなくても全国民に月5万円程度の支給が可能になるらしい。

そういったお金の話は別としても、ロボットによって農業や製造業が自動化されていけば、直感的に考えても、最低限の生活は無償で享受できるような時代はたしかにやってくるかも知れないと思える。誰もが飢えを恐れることなく、のびのびと生きていける時代。そんな平和な世になることは素晴らしいと思うし、ぜひ実現して欲しいなと思う。

そんなベーシックインカム、様々な疑問の声も上がっている。その最大のものは、「人は生活の心配がなくなると働かなくなるし、働かないと堕落するのでは?」という心配である。これについては、前回の記事(人工知能の時代でも、仕事はなくならない#5)でも書いたが、やっぱり人間には仕事が必要であり、仕事はなくならないのでは?とも思える。

ベーシックインカムは人類社会を進歩させるのかあるいはただの絵に描いた餅なのか。この命題は世界的な関心を集めていると言えるだろう。

・・・とそんなことを考えていたある日、たまたま黒澤明監督の名作「生きる」という映画を見て、あらためて仕事の意味について考えさせられることとなった。有名な作品なので既にご存知も多いかと思うが、簡単にストーリーを説明すると、、

主人公はどこにでもいる平凡な市役所の課長さんで、冒頭から印象的なナレーションで始まる。

「これが、この物語の主人公である。しかし、今、この男について語るのは退屈なだけだ。なぜなら、彼は時間をつぶしているだけだからだ。彼には、生きた時間がない。つまり、彼は生きているとは言えないからである(中略)今や意欲や情熱は、少しもない。それは、役所の煩雑すぎる機構と、無意味な忙しさの中で、全く磨り減らしてしまったのである。(中略)忙しい、まったく忙しい。しかし、この男は、本当は全く何もしていない。この椅子を守る事以外の事は。そして、この世界で地位を守るには、何もしないのが一番いいのである。」

そんな典型的な市役所の課長さんであったが、あるとき医者に診てもらったところから彼の人生は急旋回する。彼はなんと胃がんと診断され、残りの人生はもってあと半年〜1年程度と宣告されてしまったのだ。

それを知ってからの課長さんは急に市役所に行かなくなり、今までと違う人生を模索するかのように、慣れないクラブ通いなどの夜遊びらしいことをしてみてもやっぱり満たされず、家族にはもともと慕われておらず打ち明けることすらできず、悶々とする日が続くかに見えたそんなある日、知り合いの女性と会って話すうちに突然はっと覚醒し、「なにかやろう」と思いたち、近隣住民に懇願されていた「公園を作る」という目的を見出す。

そこからの課長さんはまるで別人に変わったのごとく、腰が重い他部署をけしかけ、重役に直談判を申し込み、裏社会の人間にもたじろぐことなく、一心不乱に公園づくりに邁進することになる。そして数カ月後、何とか公園は出来上がり、課長さんは死んだ。課長さんはたったひとつの小さな公園を作るために最後の短い人生を捧げ、周辺住民の感謝や同僚の尊敬を浴びながら、最後は惜しまれて死んでいったのである。

ラストは彼がいなければ作られることはなかったであろう小さな公園で子供が平和に遊んでいるシーンで終わる。きっと課長さんのことも、公園が出来た感動も、周辺住人の感謝の気持ちも、少し時間が立てば何もかも忘れ去られてしまっているだろう。彼は最後の人生をかけて、名も無き小さな公園を、名も無き少数の近隣住民のために作ったのである。ただそれだけの話ではあるけれど、それだけに誰にでも起きそうな身近で切実なストーリーである。

黒澤監督は「生きがいとは何か」といった問いへの答えを直球で投げかけてくる。課長さんは近い将来に死ぬことを知ったことでまさに別人のように覚醒して必死に生きようとし、みずから熱中できるものを見つけ充実した最後を迎えた。 考えてみれば覚醒前も覚醒後も、彼がやっていたことは全く同じ市役所の同じ業務で、特に役職や権限や環境が変わったわけでもない。変わったことは彼が死に直面して初めて感じた、「なりかやりたい!」という気持ちだけなのだ。

この作品で最も印象的だったシーンは、彼がまさに覚醒する瞬間のシーンである。
市役所の元部下で今は工場で働いている女性と、喫茶店でこんなやりとりが繰り広げられる。
(※ちなみに冒頭の写真はこのシーンのもの)

女性「なぜ私なんかにつきまとうの?」
課長「自分でも分からない・・何故か君といると楽しい・・どうして君はそんなに活気があるのか?ワシはうらやましい・・死ぬまで一日でもいいからそんなふうに生きたい」
女性「私はただ働いて食べて・・それだけよ。ただこんな人形を作ってるだけよ。でも・・こんなものでも作ってると楽しいわ。これを作ってから日本中の子どもと仲良しになった気持ちなの。ねえ課長さんも何か作ってみたら?」
課長「しかし、もう時間が・・そして役所で何を・・もう遅い・・・・いや、遅くない!・・ただやる気になれば!・・ワシにも何かできる!」

ここから課長さんは生まれ変わったように役所に戻り、机の上で偶然見つけた公園の書類に目をつけ、そして公園をつくるために奔走し、半年後に亡くなるのである。おそらく課長さんはもともと公園作りに興味があったわけでもなく、その付近の住民のことを思っていたわけでもない。とにかく彼はただ何かをやりたかったのだ。

「生きる」が発表されたのは戦後わずか7年後。この作品は今も昔も変わらない生きがいについての黒澤監督からの普遍的なメッセージだ。もしベーシックインカムの時代になり働かなくても生きていけるようになったとしても、きっと多くの人は生きがいを感じるために、誰かの役に立ちたいがために、何らかの仕事をし続けるのだろう。ベーシックインカムは「働かなくても生きていける社会保障」という方向性で進めると失敗するのではないか。それよりは「起業や研究など新しい挑戦の背中を押してくれる社会保障」という方針で進めるべきである。

やっぱり人間にとって働くということは特別で欠かせない行為なのである。
そんなことを感じさせてくれる傑作だった。

 
そしていま、皆さんにとっての「公園」はすでに見つかっているでしょうか?
もしまだ見つかっていないとすれば「なにか作ってみる」のが良いのかも知れません。