社員紹介vol.1 清田 耕一朗
清田の履歴書
1981年10月
兵庫県神戸市で誕生
1994年4月
豊中市立十七中学校 入学
1997年4月
豊中高校 入学
2001年4月
電気通信大学 入学
2003年某月
システム開発会社でアルバイト開始
2005年4月
そのまま正社員登用となり同社入社
2013年某月
同社にて取締役就任
2016年1月
bravesoft入社 受託開発部門に配属
2016年3月
事業部長就任
2017年1月
執行役員就任
2018年1月
取締役就任 兼 eventosを担当するSaaS Unit統括就任、現在に至る
清田の流儀
はじめに
QUICK・ファクトセット調べによる日本企業の取締役の平均年齢は59.5歳との調査結果であるが、その平均より20歳も若く、2018年1月、齢36にて清田耕一朗はbravesoft 取締役に就任した。それだけでも驚嘆に値する早さであるにも関わらず、前職時代も含めると、36歳にして2つの会社で取締役にまで上り詰めた人間は、日本全体を見渡してもそういないであろう。
入社して2ヶ月で部長、1年で執行役員、2年で取締役就任と、稀に見えるスピード出世を遂げた清田がこれまでどのような人生を送り、どのような結果を残し、このように異例の早さで出世・昇進というステップを踏んだか、その過去を紐解き、現在に至るまでの「清田の流儀」を紹介したい。
ライオンの尻尾より蛇の頭でありたい
町工場で賑わう大阪市西区。そんな街の一角で精密機器を販売する父親と、データ入力などを行う母親の間で長男として1981年10月25日に清田は誕生した。幼い頃は父親の職場によく遊びに行き、町工場の人たちに可愛がってもらった事も印象に残っている。両親は多忙であり、夜遅くまで働いて帰ってくる事も多かったが、当時の清田少年は日中は野球に明け暮れており、家ではゲームをしてマイペースで過ごしていた。特に野球は小学2年生から中学3年生まで部活動を続けており、今でも年末に帰省した時は当時の野球部時代の友人と会って当時の思い出話に花を咲かせる程の友情を育み、文字通り充実した少年時代を過ごした。
高校は地元の進学校である豊中高校に進学。清田が高校時代を過ごした1997〜2000年はwindows97が発売されたインターネット黎明期でもあり、多くの同世代の人間がそうであったように清田も「得体の知れない黒い画面の英文字の羅列」に興味を持つようになった。そうして大学進学の際は地元の「大阪大学」「神戸大学」への進学も考えたが、一般の大学に進学して一般教養を身につけるより、「尖った何か」を身に付けたいと考え「情報処理」という学ぶべきテーマで検索した電気通信大学に進学。
この頃、父親と就職観について話した事がある。営業職をしていた父はどちらかというと大手企業志向であり、いずれは大企業で勤めた方が良いという価値観を「蛇の頭よりライオンの尻尾の方が良いんじゃないか」とそれとなく伝えたが、清田の考え方は180度違った。
「いや、蛇の頭の方がええやろ?」
当時、ちょうど連載が始まり今では国民的アニメになった漫画作品の影響も少なからずあったかも知れない。誰も仲間がいなく、まだ何物でもないのに、トップを目指す事を宣言し、実践する主人公の姿に共感した事もあってか、清田は大きな夢を持ち、蛇の頭すなわち「鶏口牛後」であるべきだという信念を選んだ。
「いかに高い売り上げを立てるか」それしか考えていない
2001年4月、電気通信大学に進学した清田は東京に上京した。大学では基本的には座学の授業が大半ではあったが、週に2時間くらいプログラミングを学ぶようになり、高校時代に興味を持った英数字の羅列を自分でも再現できるようになった。そうしてプログラミングを覚えていき、生活にも慣れた大学3年生のとある日、清田の運命を変える出会いがあった。清田が人生の師と仰ぐ、K氏との出会いである。
元々、大学の友人がK氏が働くシステム開発企業でアルバイトをしていた縁もあり、その会社の代表取締役であるK氏と会い、その「人を育ててくれそうなところ」に魅力を感じ、清田はそこでのアルバイトを開始した。アルバイト開始当初はWEBサイトの情報更新やDBの構築を行い、その後はWindowsアプリの開発などを週3回の頻度で通いながら覚えていった。「早く実力を試したい」「大きいことをやりたい」と思う清田に対し、会社は多くの裁量を清田に与えた。清田はアルバイトの立場でありながら、他のアルバイトメンバーの管理を行い、プロジェクト全体のマネジメント、営業なども行なっていった。そうして大学4年生になり、周りの友人達は次々に就職活動を始めていったが清田は就職活動をして大手で働く事に興味も持てず、ひたすらアルバイトを行い、それが当たり前であるようにアルバイトから、正社員に変わった。
アルバイトから正社員に変わっても、清田の感覚では「週3日会社に行くのが週5日行くようになっただけ」というように、会社に行く頻度以外、やることは何も変わらなかった。入社後1年後には関連会社のフィリピンへ志願して短期出張もした。
その頃の清田はC言語・VB・VC・PHPなどエンジニアの業務も行っていたが、それよりもプロジェクト管理などを好んだ。そうして清田は入社して3年で早々にグループリーダーに就任し、そこからはプレイヤーよりマネージャー目線で「成功するため」「会社の売り上げを上げるため」のみに着目し、一心不乱に働いた。その結果、清田は前述のK氏より「取締役になって欲しい」という勅命を受け、取締役に32歳の若さで就任する。清田がアルバイト時代から数え、10年が経った頃だった。
「大きな事を成し遂げたい」という共通項
32歳の若さで取締役にまで上り詰めた清田ではあるが、それ以降、会社は暗礁に乗り上げてしまっていた。給与のスキップや遅配などの問題が表面化し、清田も業務委託として出向して働いたりしていたが、既に会社はどうしょうもない状態になってしまっていた。
そのような状況下において、清田は会社を変えていこうと「新規取引先の提案」「新事業の提案」などを提案していたが当時の会社は変革を好まなかった事情もあり、少なからず悶々とした思いを抱えていたそんな矢先、またしても清田の人生を変える出会いがあった。bravesoft代表取締役CEO/CTO 菅澤英司との出会いである。
共通の知人を介して清田と菅澤は出会うが、1981年生まれの同年生まれという事で親近感も湧き、共に「大きな事を成し遂げたい」という夢を肴に盛り上がり、清田は菅澤という存在と、その菅澤が作ったbravesoftという会社に興味を持った。菅澤のビジョン思いに大きく共感した。その当時の思い出を代表の菅澤はこう述懐する。
「初めて会った時は悶々としている印象があったかな(笑)そして飲みながら色々な話をしたけれど、凄く境遇が近いと感じた。歳も一緒だし、学生時代からベンチャー企業でアルバイトしてバリバリ働いているし、共感できる事が多かったから、“良かったらウチ来て一緒に働かない?”」って事をmessengerで送った記憶がある」
そのオファーを受けた後の清田の決断と行動は早かった。それは菅澤に初めて会って話をした時から、心の何処かで決めていたのかも知れないが、取締役という会社でNo.3のポストも、10年以上働いたキャリアをも全て捨てて、一兵卒としてbravesoftで菅澤と同じビジョンを追う事を選んだ。清田が35歳の頃である。
「うーん、一番頼りになる存在だったからかな?」
そうして2016年1月に清田はbravesoftに入社した。入社当初に清田が菅澤から言われていた事はた1つ、「まずは信頼を勝ち取って欲しい」という点のみ。
この頃のbravesoftは変革を行なっていた時期であり、人の入れ替わりが激しい時期であった為、しっかりと軸になれる人間が必要であり、菅澤はそれを清田に求めた。
そして入社した清田は直ぐに大規模案件「TVer」のプロジェクトマネージャーにアサインされたが、前職時代とのカルチャーの違いに驚いた。前職はどちらかというと形式を重視する事業形態であったが、bravesoftは「アウトプット重視」であり、そのアウトプットの質さえ良ければ形式は自由という部分に非常に魅力を感じた。
但し、目に余った部分も多かった。菅澤のワンマン企業から抜け切れていない当時のbravesoftはデータの管理など、出来て当たり前だった事が出来ていなかった部分があり、色々と発言し、テコ入れし、多くを変えていくための進言を行った。古くからのbravesoftを知る人間にとっては耳の痛い意見もあったが、清田は「良いものは良い」「悪いものは悪い」という美学を貫き、案件進捗管理・タスク管理・売上管理など、抜本的な改革を多く行なった。
2ヶ月後、清田は菅澤より「事業部長をやってくれ」という打診を受ける。決してそれが早いとも思わず、自分としてもマネージャーをやるつもりで入社したので、清田はこの申し入れを快諾し、清田が事業部長となった受託開発事業部は以降、人数規模と売上規模が拡大していく受託開発事業部で猛進撃を遂げる。
「とにかくなんでも決断が早く、説明が分かりやすい。的確なリーダーだと思いました」と、当時、清田が受託開発事業部の時代を知るスタッフは語る。そうして前述の通り、受託開発事業部は猛威的な売上を記録し、その功績を評されて清田に次の昇進人事の内示を受けたのは入社して10ヶ月余が過ぎたbravesoftの13期目が終わるタイミングだった。
「執行役員になってくれ」と菅澤より打診を受け、清田は快諾する。「“特に肩書きがついたから何かが変わるわけではない。頑張るのみ"と思った」と当時の清田は述懐するが、菅澤にこの就任に至る経緯を確認したところ「受託部門を立て直してくれた救世主のような存在であり、一番頼りになる存在だったので必然と考えて就任した」と全幅の信頼を寄せての必然としての打診であった。
振り幅が多いほど人生って楽しい
そうして2017年より執行役員になった清田にまたしても転機が訪れたのは2017年の夏過ぎ。例によって菅澤に呼び出せれた清田は開口一番「eventosの責任者になって欲しい」と菅澤から勅命を受ける。eventos、今では会社の主軸事業として多くのメンバーを抱える事業部ではあるが、当時側から見ていた清田は正直、eventosのサービスに対してそこまで深く分かっていなかった。しかしながら、まだまだアプリのパッケージとしてはやれる事が多いと思っていて、直観で「楽しそう」に思った。受託から離れる事に未練がないと言えば嘘になるが、受託部門で任せられる後継者も見つかり、ある程度の基盤を作れた自負もあった。対照的にeventosはサービスの作り直しこそ決まっていたが、組織も含め根本から立て直す必要があったので、その申し入れを快諾し、正式には2018年の異動ではあったが、2017年下旬からは籍を受託開発事業部に置きながら、積極的にeventosの立て直しに尽力し、2018年の正式異動のタイミングで取締役就任の打診を受ける。これまで同様、菅澤は「順当に任せられる」と判断し、清田も「やるしかない」と受諾。二人の間にもはや言葉はいらなかった。
そうして2018年以降に清田はeventosの責任者として就任し、行わなければならないミッションはeventosの完全作り直しであった。元々Appvisor Eventという名前で作られていたこの製品は度重なる追加改修・追加開発をツギハギだらけで作成しており末期症状であり、抜本的な治療が必要であった、タイムリミットは2018年9月の東京ゲームショウ。そこに向けてまずは人を揃えた。予算も確保した。そこで期日までに向かって開発であったが、うまく事は運ばなかった。
意見の食い違いやメンバーとの不和など、一度や二度では無い蹉跌を味わった。酒の量が増えた時もあった。それでも、清田が掲げるビジョンや目標に賛同してくれるメンバーの声が清田を後押しした。
そうしてeventos 1.0は元々の目標である2018年9月、から若干後ろ倒ししてしまったが、無事完了。もちろん完成はスタートでしかなく、リリースした直後に「eventos 1.1」「eventos 1.2」「eventos 1.3」etc…と絶えず追加開発の勢いは止まらず、この状況を本当に清田は今楽しいと語る。
「要は振り幅が大きいほど楽しみも大きいって事かな。しんどい思いもたくさんしたけど、その分今は楽しんでいる」
インタビューの最後、清田に「どうしたらここまでの速度で出世できたと思うか」を訪ねてみた。清田の回答は、ひょっとしたらこの文章を最後まで楽しみに読んでくれた方の望む回答では無いが、清田の返答は下記の通りであった。
「正直、出世を意識した事は一度もないし、出世したから頑張らないといけないと思った事はない。自分が出世して周りの人は喜んでくれたし、期待してくれた事は嬉しいけど、それ位の感情でしかない。ヒラだろうと取締役だろうと、大きな目標を持って、その為には目の前のやるべき事をやるだけだと思う」
この言葉にこそ清田の流儀が集約されているのでは無いだろうか。「急がば回れ」でも無いが、結果として昇進や出世に近道はなく、頂を目指して目の前の道をただ進むだけであり、その結果道が残っていくのであろう。
そんな清田が最後に話してくれた締めの言葉を紹介したい。
「結局、自分をハッピーにできるのは自分だけで、他人にそれを任せちゃいけない」
清田の一冊
著者:ブライアン・W.カーニハン,デニス・M・リッチー / 出版社:共立出版
「プログラミング言語C―UNIX流プログラム書法と作法」
哲学書や自己啓発本を紹介しても面白くないのでこれをセレクトしました。
私の一冊と読んでいますが、まだ実はこの本を最後まで読めていないんです(笑)
大学時代にプログラミングを学ぶにはC言語、C言語を学ぶならこの本と勧められて買った「聖書」なんですが、まだ難しくて全て読めていないですが、いつか最後まで読みきりたいと思います。