人工知能の時代でも、仕事は無くならない #5

 
人類は人工知能の春を迎えたようだ。

AlphaGOは囲碁チャンピオンを打ち負かし、車の自動運転も実用化され始め、小説や絵画を書くAIも出てきている。そんなAIの勢いを見て、これからますます便利になりそう!という期待と同時に、「この勢いでAIが発達すると人間の仕事がなくるんじゃ・・?」という疑問を持つ人も多いかもしれない。それは仕事が嫌いな人には希望かもしれないし、そうでもない人には不安かもしれない。

仕事好きな1人として想うに、人類は仕事を手放すべきではないし、
仕事も人類を手放すことは無いだろう。

まず、どうして仕事を手放すべきではないか?
それは人間社会が仕事のおかげで平安が保たれているからだ

生意気だった子供も、仕事を通して社会での在り方を学ぶし、
こもりがちな老人も、仕事を通して社会との繋がりを続けている。

もし仕事をしなくて良い時代になったら、きっと社会はもっと不安定なものになるだろう。

各国の政府が失業率をKPIとして重視しているのも、失業者が増えてくると社会が荒れるからである。それは失業者がお金に困り犯罪に手を出しやすくなるのもあるが、それ以上に仕事を通して得られる社会との繋がりやバランス感覚、そして人としての誇りを失ってしまうことが大きいのではないだろうか。下記のグラフが示すように失業率と犯罪率は明確に相関している。

 

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(参考:相関係数の高い、完全失業率と犯罪 | セコム)

米国の中央銀行であるFRBが公称している活動目標はたったの2つ。1つは「物価の安定」、そしてもう1つが「雇用の最大化」である。それだけ雇用を増やし失業者を減らすということは重視されている。政府が借金をしながらも公共事業を辞めない理由の一端も失業対策にある。街に失業者を溢れさせて治安を悪化させるよりは、(無駄かもしれない)ダムや道路を作るために働いて稼いでもらい、そのお金を市中に溢れさせたほうが良策と判断しているのである。あのエジプトのピラミッドも失業対策のための公共事業として作られたという説もあるほどだ。

そして仕事は「生きがい」を与える場でもある。とある知り合いの社長は、個人事業時代に一攫千金を成し遂げほぼ仕事をしないで生きていける状態になり、ゲームをしたり旅をしたりネットカフェに入り浸る生活をしていたが、数ヶ月ですっかり飽きてしまったのちに、一念発起して小さな会社を起こし資金繰りに奔走する毎日を選んだ。「人は生活のためだけに仕事するにあらず」である。

・・さてさて、あるべき論は別として、実際のところ人工知能の発達によって人類は仕事をしなくても良くなるのだろうか?

たしかに今ある仕事の多くは人工知能で代替可能かもしれない。タクシーの運転やファーストフードのキッチンなどはロボットで出来るようになる可能性が高いだろう。しかしだからと言って人間の仕事はなくならない。現在ある簡単な作業がロボットに代行されていくと同時に、それ以上にたくさんの新しい仕事が生み出されていくだろう。

そもそも我々人類は機械に仕事を奪われ新しい仕事を創りだす体験を繰り返してきた。下のグラフからもわかるように、我々のおじいちゃん達はかなりの確率で農民だった。みなさんも、みなさんの友達も、おじいちゃんは農民だったという人は多いのではないだろうか(僕もそのうちの一人)

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(参考:産業別就業人口割合 | 日本リサーチ総合研究所)

現在、われら80年代以降に産まれた世代は、もちろんほとんどが農民ではない。この100年の間に、農業機械の発達によって、実に数千万人分の仕事が機械に奪われたのである。それにもかかわらず、政府の統計を見ても、農作物の生産量もさほど変わっていない。
(参考:食料統計年報平成20年版 | 農林水産省)

現代の日本の失業率は3%程度である。ほとんどの人が仕事にあるつけている状態だ。我々はこの100年の世代交代の中で、ものの見事に新しい仕事を生み出し、新しい仕事へ大急ぎで大移動した結果、ほとんどの人が仕事にありつけているのである。これから人工知能やロボットが人間の仕事を奪っていったとしても、この100年ほどの大きなダイナミズムにはならないだろう。

それではこれからどうなるか?
たしかに運転手やキッチンなどの単純作業系の仕事は無くなっていくかもしれないが、アートやクリエイティブ、イノベーションの領域で人間の活躍する余地がまだまだある。気分が高揚するようなカッコいいクルマを創ったり、見てるだけで幸せな創作料理を創ったりすることはまだAIには出来ない。最近でもAIが小説や絵画を書いたりはしているが、作業過程で人間による作為がかなり入っているので、本当の意味でAIが創作しているとはいえない。

碁にしても、完全情報ゲーム(すべての情報が明らかになっている上での思考ゲーム)では人間を打ち負かしたが、現実の世界は暗闇の中で意思決定しないといけないことばかりである。車の自動運転にしても難しいのは運転そのものを制御するロジックではなくて、道に転がってるのが単なる影なのかゴミなのか未知の物体なのかという情報を一瞬で認知し、なんともいえないような不確定状態の中でも直感的な判断をするロジックである。情報が完全に明らかになっていれば、自動運転をさせることはそれほど難しくはないのだ。これからは用途を限定した自動車の運転はAIで代替されていく可能性があるが、複雑な駆け引きが必要なレースやパトカーの運転などを自動運転に任せられる日はまだまだ遠い未来になるだろう。そしてレジャーやファッションとしての自動車の市場がより活発になり、その方面での仕事が生み出されていくだろう。

これからの人類は明快で単純な仕事はAIやロボットに任せ、未知な仕事や直感的で複雑な判断な求められる難しい仕事、あるいはクリエイティブな仕事を担当するべきだ。そしてもし、もっともっと先の将来にAIが本当の意味でのクリエイティブな仕事ができるようになったとしても、AIが作った作品に人間は感動するだろうか?最初は物珍しくヒットするかもしれないが、恒常的に人類の需要を満たし続けることは恐らく無いだろうと思う。芸術の役割のひとつが作品をとおして人々の共感を呼び起こすことであるなら、やはり人類は「人」の創作に対して感動を覚えているのではないだろうか。ゴッホの絵を鑑賞するときは、ゴッホは生涯でたった1枚の絵しか売れなかったという物語や、ゴッホの視点で見ている世界の鮮やかさに感動しているのである。

実際のところ、AIがどこまで進化するかはまだ予想がつかない。自由意志や創造性まで身につけて、人類の知恵をこえて人類を脅かすという予想もあるが、今のところ、まだそのような技術は発明されていない。いつか実現する日が来るかもしれないが、それはそれで楽しみでもあるし、そうなったとしてもアートやクリエイティブの領域で人間の仕事は残るはずだ。毎日が文化祭のように、多様な表現と多様な消費が行われる社会になっているかも知れない。

我々の親の世代が農民から製造業やサービス業に大移動したように、我々やその下の世代は、クリエイティブやイノベイティブな仕事に移動していくだろう。将来は「全国民が芸能人」のような時代が待っているかもしれない。でもたぶん我々の生きている間にはまだ実現しないだろう。

先のことを考え過ぎてボーッとしててもしかたない。30年後にこの記事を読み返すのを楽しみにしつつ、まずはAIやロボットをフル活用して目の前に大量に積まれている社会問題や世界平和に一歩ずつ貢献するべく、働こう。