ガンジス川で考えるカーストと日本 #9

暑苦しい・・!。

それがインドに感じた第一印象だった。

5月のインドは灼けるような暑さで、1分も歩けば滝のような汗がでる。エアコン付きの店も少なくて、仕方ないので日陰でぐったり風を待つ。

1分もそうしていると今度は決まって近づいてくるのが怪しいインド人。ハローフレンド!調子はどう?どこから来たの?何日いるの?どこのホテル?家族いるの?仕事は何?良かったらこの近くの俺の店に云々・・などとキャッチも多いが時にはただ好奇心で話しかけてくる普通の人もあるし、ある時はこちらからその辺のオジサンに話しかけたら、日本人に会えて嬉しくて大ハシャギで歌って踊りだしてしまうこともあった、インドとはまったく暑苦しくて愉快な国なのだ。

そんなインド人とたくさん話してみてひとつ発見したことがある。それは繰り出される質問ラッシュの結構早いタイミングで、「どこのホテル?」という質問が必ずと言っていいほど入ってくることだ。「家族いるの?」より早いくらいのタイミングで。

この質問は他の国ではあまり聞かれないし、聞かれたとしてもそんなに早いタイミングではないだろう。ここインドでは、怪しいキャッチも詐欺師ガイドもボート漕ぎの青年もボートで隣に座ったOLも汗だくで疲れたオジサンもBARで飲んでいた青年も、この質問を早いタイミングで出してくる。

どうでもいいだろう、、なんでそんなこと聞くんだろう?

ホテルまで来たり送迎してくれようとしてる?
 →ガイド等ならありえるが、すれ違いにちょっとだけ話す場合も聞いてくるのはおかしい

自分の家やホテルと近いと縁を感じるから?
 →しかし答えた後に特にリアクションもないのでそうでも無さそう。

単純にホテルが好きな国民性?
 →それにしては聞くタイミングが早いし、話も広がりがない感じがおかしい

いろいろと想像した結果、僕が結論づけたのはこうだ。

「ホテルのランクを確認することで、社会的地位の高さを知ろうとしているのではないか」

文章にするといやらしい感じだが、実際に聞かれてみても不快感も感じないし、だからこそ遠回しにこういう質問になっているのではないか。あくまでも推測ではあるが、もしそうだとしたら、この質問はインドにとっての社会的地位や身分の重要性を暗示しているといえるだろう。初対面の相手への質問はその人を構成する属性について重要な順でなされるものである。インド人にとって社会的地位というのはかなりの重要事項なのだ。

インドの身分制として悪名高きカースト制度。すでに50年以上前にインド憲法で明確に禁止されているが、数千年以上続いたとされるこの慣習はなかなか消えることのないまま現代まで生き残っている。(そもそもカースト制度とは社会的な慣習のことを指しており、そのような法律があったわけでもない。「カースト制度」という名前も外国人がつけたもの)。例えば列車席の等級も1A,2A,…と5段階以上に複雑に分かれており、暮らすエリアも貧困層と富裕層は明確に離れており、Airbnbで泊めてもらったインド人宅には召使がいた。社会的な地位が低い人々はほとんど教育を受けずに、スラムなどで1日100円未満の生活を続けている。

そういった貧しい人は実は夢や希望を持つことに否定的らしい。いままでどおりに親の代からの仕事を繰り返し、その日その日を楽しんで、ご飯にありつけるなら、そしてたまに祭りを楽しんだり映画でも見ていればそれでいいじゃないかという調子で、多くを求めずに、今を楽しもうよという考え方だ。この国ではたしかに貧しい人も楽しそうにしている。しかしそれでも、日本のことを詳しく質問してくるキラキラした目をみれば、やはり本当は希望に燃えて未知の世界を夢みたいのかもなとも感じる。希望を持つだけ無駄なので持たないようにしているだけなのかも知れない。

そんなことを考えさせてくれたのは、ガンジス川でたまたま乗ったボートの漕ぎ手の青年との会話だ。彼はインド人には珍しいほどのジェントルさで、チップも求めず几帳面で約束を守り、観光情報も積極的に教えてくれたホスピタリティに溢れる好青年だった。きっとどこで働いても活躍するタイプだろう。(冒頭の写真はその時に彼を撮影したもの)

自分「あなたはいくつ?」
青年「29歳だよ」

自分「結婚はしてる?」
青年「まだ彼女も無いよ。。もう少しお金が稼げたらきっと・・!」

自分「写真とってもいい?」
青年「いいけど、日焼けで黒くて綺麗じゃないよ~!」

自分「どうしてこの仕事を?」
青年「父親も祖父もずっとこの仕事だったから・・。長男だし・・。」

自分「学校は行ってた?」
青年「中学校まで行ってたよ」

自分「兄弟はどう?」
青年「弟は他の仕事をしてる。家族で小さい店をやってるので店番。」

自分「もし子供ができたらこの仕事させたい?」
青年「させたくない!ちゃんと教育を受けさせる。教育が本当に大事」

自分「今後のことは考えてる?」
青年「先のことや難しいことは考えたくない。今日が幸せならそれで良い」

自分「夢とかあるの?」
青年「20歳のときはいろいろあったよ。もう全部だめになったけどね」

自分「海外とか行ってみたい?」
青年「海外どころかこの辺から200km以上離れたこと無いよ。お金も無いし考えてない」

自分「土日休みとかあるの?」
青年「無いよ。自営だからいつでも休めるけど休みたいとも思わない。」

自分「え!1日も休まないの?」
青年「友達の結婚式とか特別な日は休んだりもするよ」

自分「それで疲れないの?」
青年「仕事してる日も適当にやってるし大丈夫だよ」

自分「神様は信じてる?」
青年「信じてるよ。神様が全て決める」

自分「死んだらどうなるの?」
青年「死んだ時のことはわからないよ」

自分「もし生まれ変わったらどうなりたい?」
青年「やっぱり人間がいい。でもとにかく勉強する。ボート漕ぎは嫌だ」

彼はボートを嫌いながらも、それなりに楽しく生きているように感じた。

カースト的な身分制度は、考えようによっては社会に平穏をもたらす一つの統治システムとも思える。野心を抱かず、希望も持たず、親の仕事をつぎ、その日暮らしを続けていれば、社会は競争から開放され、人の心も安定する。日本でもかつての士農工商の時代から続いてきた慣習的身分制度(農家の子は農家、長男が親を継ぐのは当然という文化)は最近まで存在していたように思うが、今はほぼ無くなったと言っていいだろう。そんな現代日本でカースト的な慣習があるとすれば、それは有名大学、大手企業が有利とされる「キャリアカースト」と、上の世代が詰まっていてなかなか若者にチャンスが回ってこない「世代カースト」などが思い当たる。

いささか競争に疲れているように見える最近の日本社会は、これから安定をもとめ「脱成長社会」を目指していくことになるかもしれない。しかしそれが競争を避けて、夢や希望を抑制して、外の世界との交流を遮断するような方向に行ってしまったら、新たなるカースト社会が誕生ということになってしまうかも知れない。やっぱりそれは避けなければいけないだろう。やはり若者達が夢や希望に燃えている社会こそが、良い社会なのではないか。

ガンジス川の上でゆらゆらとそんなことを考えてみたものの、まあ結局のところ自分にできることは大河に揺られながら精一杯に自分という船を漕ぐことしかない。

青年は夕陽が綺麗だから一緒に見ようとガンジス川の向こう岸に連れてってくれた。暮れていく町並みに沈んでいく夕陽を見ていると、インド式葬式で流された遺体(!)が暗がりのガンジスに流れてくる。ガンジスで生まれ、ガンジスで過ごし、ガンジスで死んでいくインド人。1日1000円の売上で暮らす青年は生きるも死ぬも流れに任せ、1万円で買ったスマホでgoogle+を眺めながら(!)、その日その日をそれなりに楽しんでいるようだった。少しずつ暗くなっていく川辺で神々しい夕陽を浴びながらおごってくれたチャイを飲み、ちょっとだけ日本について考えていた。街に戻って冷たいシャワーを浴びて死んだように眠れば、明日も灼熱の1日が始まる。

chai